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コロナ禍の対策が難しいのは死生観に通じるから②

 

映画の話だけで長くなった。

映画をみる機会があったのも自粛要請のおかげ。ポジティブに考えればそうなる。

ただ映画と絡めてコロナ禍についても色々と思うところが出てきた。

 

生きる機会を軽くみているのは誰か

2つの映画で議論になったテーマ。

死についての考え方で賛否両論でしたが、同時に生きるという事の考え方、とも言えます。

 

コロナで自粛要請が必要なのは、ウィルスによる人の死が増えるから。

しかし自粛で仕事を失ってしまう人たちがいる。飲食店などの人たちにとって、店舗経営、仕事は「生きる」ということと同義なのだろうと思う。

生きる=働く という人もいるだろう。

こういう人たちにとって自粛要請という強制でもなく、責任もあいまいな空気を創り出し、それによって仕事や事業を失うという

ことは本当につらい。

 

この人たちに再起の際の補助を約束してあげなければならない。

現状、生き残ることもそうであるが、事業や店舗なら死んでも再起すればよいのだから。

 

いまのままだと、仕事失い収入を失った人や店を閉めた人たちが自粛に協力する側にすんなり回るとは思えない。

生きる機会を失った人、死のうと思っている人が街に出てばら撒くということも当然起こる。

 

ウィルスの致死率から考えれば、ブラジルのように自粛をやめて感染者が増えても経済を回す、という考えが出てくるのもわからなくはない。それも生きるという考え方の一つ。

 

2つの映画ではきちんと決断をします。(そこが泣ける)

そして、イーストウッド(ダン役)はその責任も取りにいきます。

 

現実も映画同様に非常に難しく、後になって何が正しかったかなんてわからないと思います。

たとえどういう結果になろうとも、首長さんたちにはイーストウッドように振舞ってほしいです。

 

 

 

昔言われた。

管理業は物件を管理する事だけではなく

そこに入っているテナントの事業を応援する事でもある、と。

応援=支援ではない。そこが難しい。